これまでの取材で、新旧様々な自転車を拝見してきましたが、「国内非売品のバイク」というのはなかなかなかったです。

日本で売られていない海外のバイクを取り寄せるというパターンの方は数名いらっしゃったんですが、「輸出仕様である日本製で国内非売品を手にする」方は記憶にありません。 ということで、輸出仕様で国内非売品のチームミヤタをご紹介します。

<オーナーさん>
  • Iさん(53歳・男性)
  • 札幌市在住
  • チームミヤタ

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目次


17歳から乗り始め、歴は35年

1985年2月11日の17歳のとき、横浜赤レンガの近くの新港埠頭で友人の輸出仕様のチームミヤタを見て、一気にロードバイクに魅せられて、それから35年ずっと同じチームミヤタに乗っています。

当時、自転車雑誌の裏表紙にロードマンとかの広告がよく載ってて、高校生になるとドロップに乗り換えるのが主流だったんです。ただ、私には兄弟が4人いて、家庭はやりくりはたいへんだったみたいです。買ってほしかったけど、買ってとは言えませんでした。

そこで、セブンイレブンで週3、夜間と日曜早朝に働いて、バイトで貯めて1986年に自分で買いました。1年半働いてまだ足りず、2年間分のお年玉を足したのは良い思い出です。

チームミヤタの輸出仕様で国内非売品

フレームはチームミヤタの輸出仕様で国内非売品です。横須賀のベースに販売するために、逗子のショップ経由で売られているものを購入しました。

サイズは570mm。ハンドルは当時の流行りチネリのジロ・デ・イタリアで、ステムは1Aで長さは130mm。「日本人離れしている」と言われます。

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輸出用は、たまたまショップで売っていたもののひとつを、友人が買ったんです。自分が買いたいときには売り切れてしまっていました。

その後、茅ヶ崎のミヤタ工場に見学に行く機会があったんですが、気の毒に思ってくれたミヤタの方が、「自転車屋がパンフレットを作るのに使った、カタログ撮影用のモノが出てきた」と教えてくれたんです。

つまり、ミヤタの工場に眠っていたバイクが買えたんです。

一時期、ロードバイクから離れてしまう

ところが、商店街で貸しレコード店で返却している間に盗難されました…。あまりのショックで何も考えられず、友人に「ロードバイクはもうやめる」って言ってしまいました。

じゃあ、チームミヤタがナゼいま手元にあるかと言うと、2人とも身長が173cm でして、友人が、不要になったミヤタのフレームを「自分は乗るつもりはなかったけど、お前がロードバイクを再開するまで、保管しておくよ」って言ってくれたんです。

で、大学2年のときに、彼から買い取りました。

35年も乗って、トラブルはナシ

走行距離はさほどでもないことが原因かもしれませんが、壊れたりすることはありませんでした。横浜を離れて19年間は、北海道に住んでいたこともあって一度も乗ることはありませんでした。

その間は友人宅に預けていまして、乗り始めたのはオーバーホールした数ヶ月前からです。 今は体重が3桁で、パワーもずば抜けているので少し心配です。

カンパ派なのでパーツはすべてカンパで統一

リアディレイラーは、当時のマニア垂涎の1977年製のスーパーレコードです。
メルクス引退のやつですね。

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シフトレバーは、スイスのICSがカンパをメッキコーティングしたもの。

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シートピラーはサカエのスーパーロイヤルでチタンボルトを使っています。

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サドルはサンマルコ、コンコール。ホリゾンタルの570なので、サドル高は低く見えてBBからトップまで735mm。180cmの人と同じくらいかと思います。


チェーンリングは、カンパヌーボスーパーレコードで最終後期の物(77年製)です。

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ペダルはルックのPP-76。

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ペダルはPP-65(LOOK)⇢TIME→PP-76(LOOK)と移行しています。タイムは動きすぎて坂でトルクをかけた時に違和感を感じて止めました。今はスピードプレイを試したいです。


他はオーバーホールして付けた、XOSS G+とO LIGHT RN1500です。ライトの明るさとバッテリーの持ちには感激しました。昔は懐中電灯をつけていて、一時間も持ちませんでした(笑)。

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ただ、最近乗り始めてカンパニョーロのブレーキフィールが重すぎて、激坂を下るときはブラケットからは効かないので、最新のコンポーネントにしたいです。


なぜカンパニョーロが好きか?ですが、単にミーハーな気持ちからです。当時のロードバイク界では、カンパへのあこがれが強く、日本でも放映され始めたツール・ド・フランスでもほとんどのトップ選手はカンパでした。

昔はなかった、パワーメーターや心拍計も付けてみたいです。

地元のフィットネスクラブで有酸素運動の計測をしたら、年齢別平均の2倍以上の数値を出したことが合って、「トライアスロンの日本チャンピオンより高い」と言われたこともあります。

46歳のとき、脳溢血で倒れた

じつは7年前の46歳のときに、脳溢血で倒れました。脳の深部の海馬をやられて、過去の経験や知識が大部分失われてしまい、自転車も乗れなくなれました。

朝、ゴミを出そうとしたら、ビニールが結べなかったんです。「おかしいな」と思って、歯でなんとか結びました。で、眠くなったので横になっていたら、妻が起きてきて「どうしたの?」と。

そのとき、私はスーツ姿でコートを着てソファに寝ていたようなんです。妻が何かを察知し、「右手、右足、上がる?」とチェックし、左足だけ上がりませんでした。妻はその時点で(右脳か…?)と気づいて救急を呼んでくれました。

ICUで検査してくれている声は全部聞こえるし、覚えています。
後に「30分遅れてたら死んでいた」と言われました。

長時間正座すると、足が痺れる感覚がある

痺れに加え、痛みもかすかにあります。感覚としては、すごく揺れている電車につり革を持たずに立っているよう。人を一人、背負っている感覚にも似ています。なので生活は大変ですね。

出血した箇所が海馬の近くだったので、バランスを取ることが難しい状態(立つことも困難)でした。体が自転車の乗り方を忘れていたんです。最初は前傾姿勢をとることすら、高い壁でした。

当時は、自営業をしながら、パソコンとかスマホのテクニカルサポートとかしてました。iPhone 6 Plusが出たときだったことを覚えています。

自転車に乗れるようになりたい、ただの日常生活じゃいやだ…という思いで、懸命にリハビリに励みました。で、「激坂」を調べていたとき、アヤさんの動画に行き着いた…というわけです。





You Tubeでいろんな自転車の情報を見ているうちに触発されて、もう一度ロードバイクに乗ろうと思いたち、少しづつ自分でオーバーホールして乗れるようになりました。


横浜のプリンス坂、ドルフィン坂、懐かしい思いで見てましたよ。



初日は10mでバランスを失ってコケまして擦過傷を負い、諦めかけましたが、アヤさんが奮闘する姿に励まされ、今は朝4時起きして交通量の少ない時間に走っています。

ただ、健常時に比べると左足の力は20%程度なので、ダンシングは出来ません。

脳溢血で倒れてからの身体の変化

自分の身体が思ったように動かないばかりか、左手で電車の手すりにつかまると痛みを感じます。左脚はまともに体重を受け止めず、足首を挫いたり最初は酷かったです。

でも、持ち前の気力とパワーで足首をパワーで固定して歩き、昨年秋の京都旅行では一日で22000歩も歩けました。色々なことを忘れているので、何も知らない子供の頃に戻った気持ちで新鮮に物事を楽しみたいと思います。

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